文京区の歴史
文京のあけぼの(古代から中世へ)
わたしたちの祖先が、現在の文京の地に住み始めたのは、約1万8,000年前の先土器(旧石器)時代と推定されており、区内では、約1万年以前に始まる縄文時代の遺跡が数多く確認されています。
明治17年(1884)区内の旧向ヶ岡弥生町から出土した土器は、日本考古学史上の大発見で、「弥生式土器」「弥生時代」という名称に、その名を残しています。
弥生式土器(東京大学総合研究博物館蔵)
中世に入ってからは、文京の地は上杉氏の支配のもとに、太田氏、豊島氏など豪族の勢力の接点にありました。その後、後北条氏の支配地となりました。当時の文書に、駒込、小日向、小石川、本郷、湯島などの地名がみられ、農村として徐々に発展したことがわかります。
江戸の発展とともに(近世の姿)
天正18年(1590)徳川家康が江戸に入り、江戸城下の開発が進められました。
江戸時代初期、この地に大名屋敷、武家屋敷が置かれ、伝通院、護国寺、根津神社などの寺社が創建され、また、多くの寺社が転入し、次第にまちが形成されていきました。元禄時代の国絵図には、駒込村と小石川村だけが村と記され、そのほかは、小日向町、金杉水道町、関口水道町のように町になっています。江戸の拡大発展とともに、江戸時代の中ごろには、文京の地は広い範囲で市街地化していたと考えられます。
中山道の街道筋には、商家が立ち並び商業活動も次第に活発に行われるようになりました。
江戸時代に繁栄した酒商「高崎屋」絵図(天保13年、1842年)
文教のまちとして
江戸時代には、文京区内の大半が武家地によって占められていました。明治時代に入り、広大な武家屋敷の跡地は、大学などの教育機関の敷地や軍用に転用されました。
また江戸時代、幕府の官学の府ともいうべき湯島聖堂、昌平坂学問所がありました。
明治期になると、昌平坂学問所跡に師範学校、女子師範学校が設立され、東京大学が現在地に移転を完了し、文教地区文京の特色を鮮明にしていきます。一方、水戸徳川家の上屋敷内の庭園が現在の小石川後楽園となり、柳沢家の下屋敷庭園が六義園となるなど、貴重な緑地を今に残しています。
小石川後楽園
六義園
近代の文京(明治から昭和)
明治11年、郡区町村編成法によって、東京府も大区小区制を廃止して、15区6郡を置きました。
ここに文京区の前身、小石川・本郷両区が誕生しました。当時の小石川区の人口は、2万6,000人、本郷区は、3万8,000人と15区の中でも人口の少ない地域でした。
近代国家建設のために、明治政府は教育に力を入れました。多くの官立、私立学校が区内に設立され、学校の転入も相次ぎました。
これとともに、逍遙、鷗外、漱石、一葉など、多くの文人が住み、この地を舞台に数々の名作を著し、文教の地としての厚みを一層増したといえます。
日露戦争を経て第一次世界大戦を迎えると、日本の経済は著しい発展を遂げ、東京15区を中心に人口が急増し続けました。小石川、本郷区ともに、人口の増加は急激となりました。
また、印刷、製本業、医療機器製造業の密集地域ともなり、地場産業として発展しました。
東京大学のある本郷を中心に、明治末から旅館や下宿屋が軒を並べ、昭和3年には旅館の数は120軒を数えました。
戦後、下宿業から旅館業へと姿を変え、地方からの修学旅行生を多く受け入れた施設もありました。また、地方別県別などの学生寮も多くなりました。
昭和12年、東京砲兵工廠の跡地に、3万人を収容する後楽園スタヂアムが大野球場として誕生しました。戦時中には、球場内に野菜畑、高射砲陣地が設けられました。
戦後の復興と新しいまちづくり
後楽園球場では、昭和21年4月に早慶戦が行なわれ、まもなくプロ野球も復活し、遊戯施設とともに、一大娯楽ゾーンに発展していきます。
昭和22年、日本国憲法、地方自治法が制定され、主権は国民の手に移りました。
同年、戦後の市街地再編成として統合を行い、22区(のちに、板橋区が練馬区と二つに分かれ23区)が誕生しました。3月15日、小石川、本郷両区が合併し、文京区が誕生しました。この時、小石川・本郷両区の人口は14万5,000人と戦前の昭和15年の30万1,000人に比べ実に半分以下となっていました。
戦災を免れた小石川区役所を本所とし、本郷区役所を支所としました。昭和34年2月には、文京区総合庁舎が完成し、庁舎は統合されました。
昭和21年に区長や区議会議員は公選となりましたが、同27年、地方自治法の改正により区長は議会の選任になりました。
その後の地方自治法の改正により、昭和50年4月、区長公選が23年ぶりに復活しました。
戦災で区内の相当部分を焼失した文京区ですが、多くの人々の努力により、さまざまな困難を克服して、戦前にもました姿に復興しました。
そして、高度成長や少子・高齢化の急速な進展などにより、まちの状況は変化してきました。こうした社会経済状況のもと、本区は人口減少が続いてきましたが、平成11年には、35年ぶりに人口が増加に転じました。また、昭和61年から始まった特別区制度改革も平成12年4月には一定の実現をみると共に、地方分権も進んできました。
平成13年7月には、個人の尊厳の尊重、自立支援、対等な関係と協力、区民参画を理念とする「文の京」の明日を創る文京区基本構想を策定し、「文の京」を生き生きとした住みやすいまちとして維持・発展させてきました。
また、平成17年4月には、文京区の自治の理念や基本的なしくみを明らかにした、区の憲法ともいうべき「文の京」自治基本条例を施行しました。この条例では、「協働・協治」を自治の基本理念と位置づけています。今後も、協働・協治の理念のもと、区民や団体、事業者等と協力し、豊かな文の京の実現を目指していきます。
文京シビックセンター25階展望ラウンジからの眺め