更新日:2024年5月5日

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【2階展示】文化の風景

文京区の名前の由来でもある文教の風土は、どのように形成され、育まれてきたのでしょうか。

ここでは教育と文人たちの姿を通して「文化の風景」を考えます。

聖堂と昌平坂学問所

孔子をまつる聖堂は、5代将軍綱吉によって上野忍岡の林羅山邸内から湯島の地に移されました。

寛政9年(1797)、忍岡以来の林家の塾から切り離した幕府直営の昌平坂学問所(昌平黌)が開設されました。

そこでは幕臣の教育(儒学)が行われ、諸藩の優れた藩士たちも学び、幕府における文教の中心的役割を果たしました。

明治維新後、昌平坂学問所跡地に大学校や文部省、師範学校を設け近代教育の拠点としました。

昌平坂学問所模型

さまざまな学校の集中

東京大学は、明治の中頃本郷の地にほぼ移転を終え、わが国の学術研究と高等教育推進の中心的役割を果たしました。一方、私学としては、明治初期の同人社、済生学舎に始まり、称好塾、哲学館と次々に創立されました。

また、女子高等教育の普及とともに、日本女子大学校、女子美術学校が創立され、文教の地としての厚みを増してきたといえます。

東京大学正門

日本女子大学

文人たちのまち文京

文京の地には江戸時代から数多くの文人たちが暮らしてきました。

江戸の文学を支えた文人たち、そして、近代文学を発展させてきた文人たちの多くがこの地に居を構えました。

なぜ文京の地に住んだのか、その理由はそれぞれ違うとしても、この地が時代の文化を支えたのは間違いありません。

江戸文化を支えた文人大田南畝と曲亭(滝沢)馬琴

大田南畝(別号 蜀山人、四方赤良)1749~1823

江戸後期の代表的な狂歌師で幕臣でした。

文化2年から6年まで金剛寺坂上(現 春日2丁目)に住みました。

墓は白山4丁目本念寺にあります。

大田南畝

曲亭(滝沢)馬琴 1767~1848

江戸後期に活躍した戯作者で代表的な作家であり、作品数は2百数10種に及びました。

中でも「南総里見八犬伝」は全106冊の長編で、47歳から28年間を費やして完成しました。

江戸文学の記念碑的な作品といえます。

曲亭馬琴

彗星のように消えた作家樋口一葉と石川啄木

明治の中期から後期にかけて文京の地に足跡を残した夭折の作家といえば、樋口一葉(1872~1896)と石川啄木(1886~1912)がいます。

森鴎外が一葉を評して「この人にまことの詩人という称おくることを惜しまざるなり」と絶賛しました。

啄木もまた「まことの詩人」のひとりであることは間違いないでしょう。

(注)このページでは、一部の日本語環境で表示できないため、「鴎」を新字で表記しています。

樋口一葉

石川啄木

「あこがれ」、森鴎外宛葉書

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