令和7年度第一回自然散策会(小石川後楽園)
令和7年5月17日(土曜日)に小石川後楽園で実施した自然散策会の様子です。
- 小石川後楽園の入り口の中に、復元された実際の小石川後楽園の入り口である唐門がありました。唐門のすぐ真下の敷石は、東京大空襲の際に焼けて溶けてしまったり、割れていたりと戦争の傷を鮮明に残していました。
- 唐門の裏の森は鬱蒼としており、昼でもあえて暗く作ってあります。それは、森を抜けた後の目を奪われるような風景を際立たせるためだそうです。

- 園内にある円月橋は、小石川後楽園2代藩主光圀が朱瞬水に作らせたもので、半円型の橋で、水面に移る形が満月に見えることから名づけられました。欄干と踏板以外は当時のまま残されています。

- 2代藩主光圀が、朱瞬水の意見により作ったとされる中国にある西湖の堤を模して造られた。また、日本で初めて西湖の堤を表現したとして歴史的にも景観的にも小石川後楽園を特徴付ける重要な庭園構成要素の一つになっています

- 2代藩主光圀が、息子である3代藩主綱條の夫人らに、民の辛苦を知らしめるために稲田と菖蒲園を作成し鑑賞しました。現在稲田は、近隣の小学生が田植えから収穫までの体験学習をしています。

- 稲田の隣にある九八屋で、様々な資料を鑑賞し自然散策会が終了しました。

散策会当日はあいにくの雨でしたが、雨の庭園も非常に美しかったです。
ご参加いただいた皆様、お足元の悪い中ご参加いただき誠にありがとうございました。
今回の自然散策会にてご記入いただきましたアンケートに、質問がありましたのでご回答いたします。
- (質問)作庭当時の敷石が残っているようですが、新しく追加された敷石もあるのでしょうか。
- (回答)小石川後楽園は、1629(寛永6)年に、水戸初代藩主徳川頼房が、将軍家から小石川に邸地を下賜されたことに始まります。390年以上も前のことです。その長い歴史の中で庭園の存続が危惧される事態に何度か遭遇しています。
- 1702(元禄15)年、綱吉の生母である桂昌院が後楽園を訪問した際に庭園の特徴である奇岩大石を撤去し園路の改修を行う。
- 1703(元禄16)年、関東地方を襲った巨大地震で、蓬莱島が瀑布とともに崩壊し、砂洲が沈む。
- 明治維新により、240年に及ぶ水戸徳川家の時代が終了し、1869(明治2)年10月に旧水戸藩邸跡敷地が兵部省に移管され、兵器製造工場が建設予定であり当初は小石川後楽園全域を潰廃される計画であったが、当時の陸軍卿の山縣有朋の「あの名園を失うに忍びない」と反対する等により庭園の保存が実現した。しかしながら、庭園の一部が破壊されたり、神田上水の暗渠化や工場建設により排煙で多くの樹木が枯死。
- 1923(大正12)年9月1日の関東大震災により、清水観音堂・八卦堂・涵徳亭が焼失し、唐門・九八屋をはじめとする建築物の損傷、徳大寺石が周囲の石組みとともに倒伏するなど甚大な被害を受けた。
- 1945(昭和20)年の空襲により、棕櫚山の樹林や唐門、九八屋、丸屋、琴画亭等の建物が焼失した。
上記のような変遷を経る小石川後楽園は、その都度、様々な修復、復旧を行い今日に至りました。そのため、作庭当初の様子とは大きく改変されています。
皆さまは庭園の園路を歩いてるときに、突然歩行リズムが乱れる場合があることにお気づきになりませんか。
それは、作庭当初はリズムをもって敷石が並べられていますが、その後の災害により破壊された園路などの復旧工事において、使用できなくなった敷石を入れ替えたり、長い庭園の歴史の変遷で園路が改変されていることで、敷石の大きさや色使いなどが異なることによるものです。
以上を踏まえて総合的に判断すると、長い庭園の歴史の変遷で園路が一部改変されていますので、その際には新しい敷石を敷設したと考えられます。