文京ふるさと歴史館
文の京の歴史・文化ガイド
町並みの移り変わり−定点観測−

関口界隈 「関口大洗堰」

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    ▼写真の上をポイントすると絵がかわります。
東京名所四十八景 関口目しろ不動の大きな画像
東京名所四十八景 関口目しろ不動の画像
東京名所四十八景
関口目しろ不動

四十六昇斎一景画
明治4年(1871)

*左に関口大洗堰、右上に目白不動が見える。
昭和大東京百図絵 関口大瀧の画像
昭和大東京百図絵
関口大瀧
(おおたき)
小泉癸巳男画
昭和6年(1931)頃

*夏の大洗堰を描いたもの。
 夏には水辺に涼を求める人びとが集まってきた。
関口大洗堰昭和40年の画像
関口大洗堰 (おおあらいぜき)
(『新撰東京名所図会』より)
明治39年(1906)
関口大洗堰の画像
関口大洗堰
明治40年(1907)
関口大洗堰大正8年の画像
関口大洗堰
大正8年(1919)
関口大洗堰昭和初期の画像
関口大洗堰
昭和初期

神田上水は、徳川家康が江戸に入った天正18年(1590)の少し後に開かれました。井の頭池を水源とし、 明治34年(1901)に閉鎖されるまで江戸・東京の人びとに飲用水を供給しました。大滝橋近くに大洗堰が設 けられ、ここで神田上水の水位を上げ、上水路を通して小石川の水戸藩上屋敷(現・東京ドーム一帯)に水を入れ、 余った水は神田川に流しました。明治34年に飲用水への利用を終えた後、水戸藩上屋敷跡にできた東京砲兵工廠 (兵器工場)の工業用水として用いられましたが、 工廠(こうしょう) の移転により、大洗堰は昭和8年(1933)に廃止され ました。 大洗堰は絵になる素材だったようで、版画や絵画、また絵葉書などにもよく用いられました。ここでは明治初期 から昭和初期までの写真などを集めました。景観が少しずつ変わっていく様子がわかります。


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